家庭関係研究所の山下あつおみです。
愛と性の摩擦を可視化し、その和解のプロセスを記録することをライフワークとしております。本記事では、スピリチュアル志向へと傾いた妻と現実主義の夫が再び手を取り合うまでの軌跡を、男性側の目線でインタビューしました。
今回の取材相手はタクミさん(36歳・IT系営業 ※仮名)。妻ユウコさん(34歳・パート勤務 ※仮名)との夫婦生活について、率直に語っていただきました。
※本人が特定されないよう設定を変えてあります
※写真はイメージです
子づくりが目的の夜は、もう夫婦の時間じゃなかった
都内在住のタクミさん夫婦は結婚7年目。互いに心から望んだはずの赤ちゃんがなかなか授かりませんでした。タイミング法、通院、検査、人工授精……期待と失望を何度も繰り返すうちに疲れ果てたユウコさんは、次第にスピリチュアルの世界に救いを求め始めました。
パワーストーンを集め、満月の夜には塩風呂に入り、「子宝祈願ツアー」に参加するようになった妻を見て、タクミさんは「理屈が通じない迷路に放り込まれた」と感じたと言います。
夫婦のベッドは、いつしか安らぎの場ではなく、「儀式の場」に変わりました。夫のタクミさんは協力者どころか、「邪魔者」とさえ感じられるようになったのです。
「妻と愛し合いたいと思っても、『今は浄化期間だからダメ』って言われるんです。じゃあ僕はどうしたらいいんですか?」
妻を愛している。でも彼女が信じる「見えない力」と闘う方法を、タクミさんは知らないままでした。今回は、そんな男性側の視点から「スピ妻」とのレス問題について、彼の切実な声を聞きました。
午後3時、都内カフェで“占星術カレンダー”をめくりながら
平日のオフィス街にあるカフェ。スマホで商談メールをさばき終えたタクミさんは、アイスラテのカップににじむ結露をハンカチでぬぐい、ペーパーナプキンの上にそっと置きました。黒縁メガネの奥には、連日の睡眠不足からくる薄いクマが見えます。
ポロシャツは「オフィスカジュアルでもギリギリ許される無地のネイビー」と彼が呼ぶもので、その胸ポケットには折りたたんだ満月カレンダーが差し込まれていました。紙の端は触りすぎてわずかに丸まり、汗で青いインクがにじんでいます。
「妻から『今日はボイドタイム※だから大事な決断は避けて』ってLINEが来たんですけど、それが昨夜23時ですよ。仕事柄『決断』の連続なので、もはや息をするなと言われているような気分で……」
※ボイドタイム=月が他の惑星と主要なアスペクトを形成しない時間帯。占星術界隈では「物事が空回りしやすい」とされ、公的書類の提出や大きな買い物を避ける人も少なくない。
アイスラテの氷がカランと溶ける音が響き、窓際の鉢植えのゴムの木がドアの開閉でわずかに揺れました。
――今日はお時間をいただき、ありがとうございます。率直に伺いますが、いま何がいちばん苦しいですか?
「『夫婦なのに本音で向き合えない』――これが自分の持ちギャグみたいに口をついて出るんですが、本当に笑えないんですよね。物理的にも精神的にも、途中で見えない壁が下りてくる感じで……そこで僕は止まるしかない。そんな夜がもう4年以上続いてます。長いですよ」
タクミさんはそう言ってカップを傾け、氷をひとつ口に含みました。その冷たさが喉を通るわずかな痛みで、眠気と曖昧な憂鬱をリセットしているようでした。
結婚4年目、 “排卵日に義務セックス”……壊れていったリズム
結婚当初の夜は、もっとシンプルで親密でした。帰宅途中、駅前で「今夜はテイクアウトにしようか」と笑い合い、ワインでほろ酔いになってベッドへ。YouTubeで観たばかりの面白い動画を思い出して、抱き合ったまま笑い転げる……。そんな穏やかな時間の積み重ねが、二人の日常だったのです。
そのリズムが崩れたのは、結婚4年目。婦人科医からタイミング法を勧められてからでした。スマホの排卵チェッカーアプリが“今日か明日”を示すピンクのハートマークを通知すると、その「ポロン♪」という音が、会社の緊急チャットよりも心拍数を上げる合図になっていきました。
「残業で深夜0時を過ぎて帰宅すると、妻はリビングのソファで待っているんです。 “今日じゃなきゃ後悔する”って。でも僕は、まだ完全に仕事モード。スーツには外食した唐揚げの匂いも残っていて、 “シャワーで清めてきて”って言われるんですよ。急いで浴びて戻ってきたら、今度は“あと15分くらい横になって体温を上げるから待ってて”と……。こっちはすっかり気持ちが冷めてしまうんですよね」
排卵日を“待ち構える”ようになると、タクミさんは「ロマンティックな偶発性がすべて駆逐された」と感じるようになったと言います。アプリのグラフは、急勾配の株価チャートのように二人の感情を煽り、検査結果が陰性なら奈落の底へと突き落とされる――そんな感覚でした。
通院は週1から週2に増え、待合室では毎回同じ雑誌の「体外受精成功ストーリー特集」が目に入る。成功率のパーセンテージは、赤字の太字で強調されていて、ユウコさんは帰り道、「私の卵胞、小さいんだって」とつぶやく。タクミさんは「いや、数は多かったろ」と必死でフォローするけれど、次の診察でもまた“平均より”という言葉が出るたびに、二人は同じタイミングで、言葉を失っていきました。
「医師から言われる“確率”って、もう営業職の歩合ノルマにしか思えなくなって……。達成できないと“無能”の烙印を押されるような気がして、自尊心がどんどん削られていくんです。妻は自分を責める。そして、僕はそんな妻を守れない自分を責める。そんな状況で、 “愛し合う夜”なんて無理でした」
“科学”から“宇宙の声”へ――妻が変わった日
人工授精3回目の判定日前夜。ユウコさんはキッチンの床に膝をつき、シンク下から取り出した空の保存瓶を抱きしめるようにして、しゃくり上げていたそうです。
「食器を洗っていたら、突然その場に崩れ落ちて泣き出して。“薬の匂いで吐き気がする。私、宇宙の声を無視してる”って言われて、正直、何が起きたのか分かりませんでした」
翌朝、ユウコさんのInstagramは #子宝石 #波動調整 #満月の浄化 といったハッシュタグで埋め尽くされ、広告タブには「子宝お守りコース」のバナーが踊っていました。
「冷えとり靴下とか、よもぎ蒸しぐらいなら“健康グッズの一環”だと思えたんです。でも、あっという間にレベルが跳ね上がった。寝室にはスモーキークォーツやローズクォーツのクラスターがどんどん増えていくし、棚の上には“浄化スプレー”“イヤシロチ化シート”なんてのまで並び出して……。カードの利用明細を見たときには、本気で腰を抜かしそうになりました」
――かなり大変な状況だったと思います。反対の声をあげづらい中、どう対応されたんですか?
「人工授精に失敗して、明らかに妻は塞ぎ込んでいた。だからこそ、“少しでも明るくなれるなら”と、最初は黙認してたんです。でも、“紫微斗数では今月は胎児の魂が降りてこないから禁欲ね”って宣言されたときは、もう頭の中で警報が鳴り響きました。意味も分からなかったし、調べてみてもよく分からないし……。しかも、じゃあ何のために俺は新しい下着まで買ったんだ!? って」
水晶クラスターの上にパワーストーンを並べ、“チャージ”しているユウコさんの後ろ姿――それは間接照明の中でどこか神々しくすら見えたといいます。けれどタクミさんの心には、“ここ、俺たちの寝室だったはずだよな?”という現実感とのズレが強烈に押し寄せたといいます。神秘性と違和感、その二重のショックは、タクミさんの中で複雑な感情を引き起こしていたのでした。
レスに潜む“二重の拒絶”――男は“精子タンク”か“穢れ”か
禁欲期は月に10日以上。排卵期に入っても、占星術アプリのアラートで“相性最悪”と出た日はNG。リビングのホワイトボードには浄化→充電→開放の矢印付きスケジュール。付箋の色は“ブルー=水エネルギー”“ピンク=愛エネルギー”“グレー=穢れの排出”。
「妻は瞑想アプリを再生し、うっすらアロマを焚き、パロサントを炊いて煙を手で仰ぎながら“今日は仙骨のエネルギーが弱い”って言うんです。こっちは疲れてるし早く寝たい。しかも儀式が終わる頃には真夜中、僕は睡魔と戦ってる。“あなたの欲が強いと悪い波動を拾う”と指摘され、僕は“供給過剰の精子タンク”か“邪念そのもの”みたいな位置づけに落ちるんです」
ある夜、タクミさんのストレスが爆発した。「だったらセックス自体やめるか?」というと、妻は石を握り締めて一歩下がり、初めて僕を睨んだ。「そんな低い波動で赤ちゃんを呼べるはずない!」その瞬間、壁を殴りたい衝動を抑え、ベランダに逃げましたね。深夜0時、遠くに見える東京タワーがライトダウンされる瞬間、胸の奥底で何かが折れる音がしたといいます。タクミさんはベランダの柵をつかむ指の震えが止まらず、遠くでパトカーのサイレンがむなしく反響していたそうです。
“合理主義者の孤独” 誰にも言えない愚痴
ある日、会社の後輩から「最近、帰宅早いですよね」と声をかけられたタクミさんは、軽く「子作り追い込み中でさ」と冗談めかして返しました。するとその場の空気が、ふっと凍りついたのがわかったといいます。
「“不妊治療は夫婦で乗り越えるもの”ってネットにはよく書かれてるけど、現実では男が詳しく話せる場なんて、どこにもないんですよね。“今日は高温期だけど妻が波動調整中で禁欲ってさ”なんて言ったら、飲み会が黙祷ムードになりますし、こっちのパーソナルな部分まで疑われかねない。だから、一切話さないようにしています」
孤独を抱えたまま悶々としていたタクミさんは、ある週末、渋谷の大型書店に足を運び、「男性不妊」の棚を探したそうです。ところが、そこに並んでいたのは女性誌の付録や美容特集ばかり。わずかな医療系書籍の隅に、小さく紹介されていた程度だったといいます。
「うちの場合、二人三脚どころか、妻は宇宙遊泳。僕は地上でロープを握って待ってるような状態。それって、まずメディアには載らないですよね」
本屋から帰宅すると、ユウコさんは“#子宮温活カフェ”とタグのついたハーブティーを淹れて待っていました。湯気越しに見える妻の顔を見ながら、タクミさんは心の中でつぶやいたそうです。
“このお茶を飲んだら、少しは宇宙に近づけるんだろうか”。
そのくらい、彼の心はすり減っていました。だけど、だからこそ……疲れきったタクミさんは、あるときふと「もういっそ、妻の考えを理解してみよう」と、開き直る決意を固めたのです。
“夫婦カウンセリング”ではなく“魔術師セッション”
「いっそのこと、妻と同じ目線になればいい。そんなふうに思ったんですよね」
どうにか夫婦関係を修復したい――そう考えたタクミさんは、ある日ネット検索で「夫婦関係修復カウンセリング」というサイトにたどり着きました。予約フォームにはこう書かれていたそうです。
「科学的根拠とスピリチュアルを融合した統合セラピー」
「これまでの僕なら、絶対に行きませんでした。でも、何かアクションを起こさなければ何も変わらない。だったら、妻がなぜそこまでスピリチュアルに傾倒するのかを理解しようと思ったんです」
セッション当日、薄曇りの日曜日。会場はビジネスホテルの一室を借りた簡素なセッションルーム。迎えてくれたのは、紫のターバンを巻いた女性セラピスト。その背後の壁には、「アルクトゥルス星からのメッセージ」と書かれた手書きのポスターが貼られていたそうです。
「妻はもう大興奮でした。“この人、スターシードだよ!”って。僕は完全に置いてけぼりで……スーツに革靴のまま畳の上に座らされて、“あなたは火のエレメントが過剰、妻は水のエレメントが不足。まずはあなたが水を与えるマッサージを”って言われました。要は“奉仕せよ”ってことですよね。もう何を言われてるのか、さっぱりでした」
出された“宿題”は、なんと「寝る前にお湯で絞ったタオルで妻の足裏を清め、“子宮のエネルギーを高める呼吸法”を唱和すること」。
「信じてはいませんでしたけど、やりましたよ。とりあえず。でも、心の中では“足裏拭いてれば父親になれるのか?”って、疑問がずっと渦巻いてましたね。しかも僕の呼吸が荒いと妻のエネルギーがブレるらしくて、“今日は無理だね”って。毎晩、失点を重ねてるような気分でした」
それでも、なんとか状況を変えたい一心で、タクミさんはExcelで「セッション宿題達成率表」まで作成。赤い条件付き書式で「×」をつけるたびに、自己肯定感がじわじわと削られていくのを感じていたといいます。
“逃げ場としてのAV・風俗”――越えたくないのに滲む境界線
タクミさんの数少ない楽しみは、深夜2時。リビングで一人、ハイボールを煽りながらAVを流すことだそうです。イヤホン越しに響く喘ぎ声は、もはや“ただのBGM”。気づけば、2週間で再生履歴が30本を超えていたこともあるといいます。
「正直、風俗の広告もクリックしました。けど、財布からカードを出そうとすると手が震えるんです。“これをやったら、もう戻れない”って。本当は、今でも妻のことが好きなんです。浮気なんて嫌悪感しかない。でも、どこにも性的な出口がない。その矛盾に、身体が裂かれそうでした」
ある金曜日、同僚から「サウナ→泡のお店」コースに誘われたといいます。待ち合わせ場所までの道すがら、頭の中では“風俗公認の家”という言葉が、ぐるぐると回り続けていたそうです。
「駅の改札で、カバンを握りしめたまま、一歩が踏み出せなかった。妻の顔と、家中にあるスピリチュアルの石、両方が脳裏に浮かんで……泣きそうになったんです。自分、こんなに脆かったんだって、そこで気づきました」
帰宅後、寝室のドアを開けると、ベッドサイドには新月に合わせてユウコさんが作った“月光水”が並んでいました。タクミさんは震える手でペットボトルを一口飲み、何も言わず風呂場へ。冷水シャワーを浴びた鏡の中、自分の目が赤く充血していたといいます。
本編では、妊活をきっかけにスピリチュアルへ傾倒していった妻とのあいだに深い溝が生まれ、心身ともに触れられない関係となった夫・タクミさんの苦悩をお届けしました。
▶▶「もう一度、触れたい」スピリチュアル妻と科学派夫が、お互いの「信じるもの」を交換してたどり着いた“ふたりの新ルール”
では、夫婦のすれ違いがピークを迎えたあと、どうやって“もう一度触れ合える関係”を築き直したのか、夫婦がどうやって“ふたりのちょうどいい距離”を見つけていったのか。再び心と身体を重ねるまでの軌跡をたどります。