本作の主人公は「ラブコメ一色のキャリアに、終止符を打ちたい!」と重厚な人間ドラマへの出演を熱望する俳優、神崎麗司(中島健人)。しかし、またまた舞い込んだオファーは、世間が彼に求めるキラキラしたイメージそのままの“ラブコメ”だった。理想と現実のギャップに葛藤しながら向かった撮影現場だったが、そこで出会った共演者の南風美里(長濱ねる)は、役のためになら妥協せず、不器用なほどまっすぐ突き進む生粋の“俳優”だった。そんな美里に麗司は苛立ちと戸惑いを感じながらも、目が離せなくなっていく。
劇中で中島が演じる麗司は、「重厚な作品に出演したい」と思いつつもラブコメの仕事ばかりが回ってくる、イメージの固定化に悩む人気俳優だ。その姿にわたしたち観客は、中島健人本人のキャリアも重ねて見ずにはいられない。これまで数多のラブコメで主演を務め、「王子様」キャラを確立してきた中島だからこそ、この役柄にはフィクション以上の説得力が宿っている。
だからこそ本作は、ただの俳優のラブストーリーには終わらない。中島健人、神崎麗司、そして麗司が劇中演じるラブコメ『壁ドン!床ドン!君にドーン!』という三つのレイヤーが重なり合い、「演じること」と「生きること」の境界を少しずつ曖昧にしていく。演技とは現実を模倣するものではなく、ときに現実そのものを生み出してしまうほどの力をもつものなのだと、本作は軽やかなラブコメの形式を借りて描いていく。しかし本作のおもしろさは、そのメタ的な構造だけではない。むしろ印象に残るのは、ラブコメというジャンルそのものへの誠実なまなざしである。
麗司は、「ラブコメばかりに出ていては評価されない」という焦りを抱えている。シリアスな作品や社会派ドラマ――劇中、俳優仲間の渕上(塩野瑛久)が主演に抜擢された”日曜ドラマ”枠がその典型例である――こそが俳優の到達点であり、ラブコメはそこに至る前の通過点に過ぎない。そんな価値観は、映画やドラマの中だけでなく、作品を鑑賞するわたしたちの姿勢にもどこか染みついている。作品を褒めるとき、たびたび「単なるラブコメではない」「ラブコメを超えた」といった表現が用いられる。そのことばは作品への賛美である一方で、「ラブコメ」といったジャンルそのものを、どこか乗り越えるべきものとして、軽視する姿勢が透けて見える。「ラブコメ」は、否定されたり超えられたりすることで価値を増す、高い評価のために脱ぎ捨てられなければいけないものなのだろうか。
『ラブ≠コメディ』は、その価値観を静かに裏返す映画だ。麗司はラブコメ俳優であることに葛藤するが、映画そのものはラブコメを脱ぎ捨てることを成長としては描かない。最悪の出会いから、体調不良による危機、そして胸が高鳴るような王道のキュンキュン演出――そうした「ベタ」なラブコメの文法を最後まで積み重ねながら、「ラブコメ」というジャンルを祝福する。中島は本作について、「ラブコメでありながら、ただのラブコメではない」と語っている。たしかにそのことばの通り、本作には従来のラブコメでは見たことのない魅力が詰まっている。しかし、本作の核心は、「ただのラブコメではない」という点以上に「ラブコメである」ことを最後まで手放さない姿勢だ。俳優の葛藤も、メタ的な構造も、すべてはラブコメというジャンルの外へ出るためではなく、その内側を豊かにするためにある。
「単なるラブコメではない」という言葉でしかラブコメを評価できないとしたら、それはラブコメというジャンルを信じきれていないということでもある。『ラブ≠コメディ』は、そのためらいを静かに裏返す。ラブコメを超えるのではなく、ラブコメであり続けること。その誠実さこそが、この映画のいちばんの魅力なのだ。



