一年間、被災地を歩いて
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この一年、取材を重ね、半年以上はどこかの被災地におり、どこにも思入れがありました。思い入れのある人も多いのです。前日の10日は、石巻市雄勝地区を訪れました。雄勝地区も一年目に訪れたい被災地の一つでした。雄勝の話を聞いたのは、昨年4月のことです。雄勝から避難してきた人たちが多くいた避難所でした。
ある中学生が「雄勝が好きだ」というのを繰り返していました。雄勝は壊滅的だという情報は入っていましたが、行かなければならないと思ったのです。最初に見た光景は、規模は違いますが、同じく壊滅的になっていた南三陸町志津川の光景とほぼ同じでした。
この雄勝地区での震災を象徴するのが中央公民館の屋根に打ち上げられた観光バスでした。訪れるたびに、その時に咲いている草花を入れて、写真を撮っていました。その観光バスが3月10日に撤去されることになっていたのです。この日は雪が降っていました。多くの人が訪れていました。
ボランティアの女性は「雄勝を訪れるたびに観光バスを見ていた。今後はあまり来れなくなるかもしれない。これからは東京でできることを考えたい」と撤去作業を見守っていました。
また、「子どもが(撤去作業を)見たい」と言ったことで連れて来た雄勝出身の女性は「バスが撤去されるというのは、公民館も壊されるということ。思い出の場所がなくなってしまう」と寂しそうな様子。と、同時に「これで復興が進むのならいいです」と考え深そうでした。
一年目の当日は釜石市鵜住居に行きました。釜石市では、学校管理下の児童生徒の犠牲者がゼロだったこともあり、「釜石の奇跡」と言われ、その象徴として取り上げられている釜石東中学校の生徒がたちが、自身の避難ルートを写真を撮りながらもう一度歩いていました。あの日、どのように避難をしたのか?という話を聞きました。
2人の女子中学生でしたが、集団で避難をしているために、その位置によって見ていることが違っていました。他の生徒の話も聞いたことがあります。もちろん、大枠は合っています。しかし、その時に聞こえたもの、見えたもの、感じていたこと、どのくらい動揺していたのか、といったことはバラバラでした。一つの「避難」という出来事ですが、一致しない部分があり、「生徒はこう逃げた」と一言で言えないことを改めて感じました。
こうした話を聞いた後に、防災センターへ行きました。市では、津波避難所ではなく、津波が引いたあとに避難生活をする「拠点避難所」として位置づけています。しかし、避難訓練では"避難所"として使用していました。そのため、近くの住民だけでなく、この付近を通過した人も防災センターに避難したのです。しかし、津波に襲われ、犠牲者が多く出たのです。
釜石市では震災の検証委員会を設置して、教訓を後世に残そうとしています。その中でも、防災センターの悲劇はトピックでです。行政側としても、住民としての大きな焦点になっています。
地震発生時間前に行くと、すでに多くの人が集まっていました。多くの人が犠牲になった防災センターですが、生存者もいます。生存者の方もこの日、訪れていました。ただ、急いで立ち去ったのです。
「建物の構造が、記憶が違う」
これだけを言い残したのです。
この一言が、この問題の大きさを示していると同時に、まだ語れないことが多いということも感じました。また、生存者の家族の方も「いまは電話も出てくれない」と話していました。家族でさえ、まだあのときの話はできないのです。
被災地で取材すると、これまできちんと報じてくれたことへの感謝と同時に、「今後は忘れられて行く」という不安も同居していました。私もおそらく、これまでのペースで被災地取材はできなくなると思っています。3月11日前後は別として、震災への興味が減り、メディアへのアクセスが減っているのが現状です。
もちろん、「忘れること」が絶対的に悪いわけではありません。人々はそれぞれの日常の中に生きています。
しかし、「忘れること」が必要な人もいると思います。思い出したくない人もいるでしょう。その中で、一年目以降、何ができるのかを考えてきたいと思っています。
[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中]
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