津波訴訟が問いかけるもの
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2011年3月11日14時46分に地震が発生しました、当時、女川支店には14人の行員らが勤務していました。同55分には支店長が外出先から戻りました。このとき、6メートルの大津波警報が発令されていました。
支店長は高さ10メートルの2階屋上の避難を指示しました。派遣スタッフの一人は子どもを心配したために帰宅しました。15時25分ごろ、津波の高さは海抜20.3メートルほどで、屋上を超えて、行員13人が流されました。一人は生還しましたが、12人が死亡または行方不明のままです。
なぜ、町が避難所として指定していた高台・堀切山への避難を指示しなかったのでしょうか。その高台には町立病院(現在は地域医療センター)がありました。海抜16メートルで、当時、この病院の一階も浸水しています。
震災前に想定していた宮城県沖地震による津波の高さは、女川町では5.3メートルから5.9メートルです。支店付近は1~2メートルです。ただし、想定した地震とは違った震源の位置や震源の深さの場合は変化しますので、あくまでも目安です。
そんな中で支店長が屋上に避難したのは理由があります。震災前に同銀行が沿岸部にある9つの支店に災害対応プランとして、「屋上等への避難」を策定していたといたためです。いわゆる、「屋上プラン」です。
一審判決(仙台地裁)では、支店長の判断は不適切とは言えないとして、原告の訴えを認めませんでした。控訴審(仙台高裁)では、再発防止につながるという和解案が示されました。しかし遺族側は「支店の被災を踏まえていない」との見解を示したことで、和解協議は打ち切られ、控訴審も敗訴しました。最高裁も憲法違反かどうかを審議する場であることから、上告を棄却しました。
20日に仙台弁護士会で遺族は会見をしました。
「裁判を通じて明らかになったこともあります。もし訴えていなければ、闇に葬られていたものです。その意味では(裁判は)価値がありました」としながらも、「(屋上プランでは)結果、命が助かっていない。(銀行の屋上では、それ以上の津波がきた場合)逃げ場がなくなります。それは銀行側の落ち度です。新しい行員に対しては、女川支店のことを伝えて、安全な場所に逃げられる体制を築いてほしい」
現在、女川町では新しい駅ができ、その前には商店街ができました。復興を目指して、新しい町づくりに取り組んでいます。観光客も訪れています。駅から数分歩くと、堀切山に行くことができます。そこから津波に襲われた街全体を見ることができます。震災当初は、根こそぎ倒れている建物が話題になりました。そうした倒れ方をしているのは珍しかったためです。しかし、そうした建物も旧女川交番だけになりました。同交番は遺構として保存されます。
その堀切山の中腹には、「鎮魂の花壇」があります。この場所で、休日には遺族会が女川支店の悲劇を伝えています。当初は、同支店の跡地で訪れる人に説明をしていましたが、現在は、復興工事のために立ち入ることができません。裁判では法的な責任を問うことができませんでしたが、遺族は今後も企業の安全配慮義務について問う活動をしていくとしています。
会見で遺族はこうも言っていました。
「家族と銀行がともに検証しながら安全を考えていきたい気持ちが大きかったが、銀行は違っていた。(震災の)翌年3月11日までは遺族会と話し合っていたが、ずっと平行線だった。話し合いも平日しかできなかった。第三者による調査も頓挫した。そのため、裁判しかなかった。有事が起きたときの原因究明をする制度を確立してほしい」
企業が作成したプラン通りに避難して、結果、社員等が亡くなった場合、企業に責任がない。この判決のままであれば、そうなってしまいます。この震災で、企業によっては、上司の指示に反して、周辺の避難所に逃げた社員がいました。その建物には津波が来ていたため、もし上司の指示に従っていたら、助かりませんでした。そんなケースもあるのです。
今後、首都直下地震、東南海地震が起きた場合のことを考えると、他人事ではありません。こうした自然災害ので事故でも「何があったのか?」を知りたい遺族はいます。法的責任とは別に、真実を知りたい遺族の気持ちを反映させる枠組みが必要なのではないでしょうか。
[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材 有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中
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