いまや40万人にのぼるともいわれる不登校児童生徒。我が子の不登校に直面した親たちは、動揺し、未来への不安を募らせがちですが――不登校を経て大人になったかつての当事者の中には、「不登校があってこその今」と捉えている人も少なくありません。
この「不登校の答え合わせ」は、登校への困難を抱えたことがある方々の経験を深掘りするインタビューシリーズ。当事者の「あの頃」を辿りながら、今だから語れる思いをお届けします。
今回お話をお聞きしたのは、大手リゾート企業に勤務しながら、2人の子どもを育てるさゆりさん(仮名・38歳)。小学4年生のある出来事を境に、数年間にわたり不登校と行き渋りを経験したといいます。「親は、『ある日突然』と思うかもしれない。でもその訴えの裏には、決して『突然』ではない子どもなりの葛藤と、言葉にしきれない思いがきっとあるはず」――そう語るさゆりさんの経験をお聞きします。
【不登校の答え合わせ|#1 前編】
「空っぽのランドセル」――それは「行きたくない」と言えない私の精一杯の意思表示だった
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「学校に行きたくない」――さゆりさんがはっきりそう思ったのは、小学校4年生の時。とあるクラス活動がきっかけでした。
「所属していた委員会で、各クラスで話し合っておくように言われた事柄があったんです。確か担任の先生は用事があって、『みんなで進めておいてね』と言い残して席を外しました。同じ委員だったクラスメイト2人と私で教壇に立って、会をスタートしたものの……クラスメイトは大騒ぎ。私はハキハキ発言する優等生タイプで、正義感も強かったので、『静かにしてくださ~い!』と、大きな声で何度も働きかけましたが、無視。『あいつ、うるせえな』という声も聞こえてきました。
でも、それより何よりショックだったのは、休み時間に仲良く遊ぶ友達が協力してくれなかったこと。逆の立場だったら、私はきっとみんなに話を聞くよう促したり、助け舟を出したりするのに、なんで?って」。
ところが、一緒に教壇に立った委員仲間は、そんな風景を前にしても、ケロリとした様子。
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「『……ってことは、こんなことで傷つく私がおかしいのかな?』と思ってしまって誰かに相談もできず、一人でモヤモヤを抱えたんです」。
直後に2~3回巡ってきた同様の場で待っていたのは、いつも同じ展開。小さな傷が積み重なったさゆりさんの心は、息切れを起こしていました。
「憂鬱な会があるのが、木曜日。私は、一番傷つくその時間から、とにかく逃げたかった。だから、ある水曜日の夕方、『明日は学校に行かない』って決めたんです。でも、自分から親や先生には言えなくて……次の日の準備を何もせず、ランドセルを空っぽにしたまま、木曜日の朝を迎えることにしました」。
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翌朝。一見普段と変わらぬ食卓で、朝食を取るさゆりさん。その脇で、ランドセルを何気なく手に取った母親が、その軽さに気づきます。
「『あれ?今日、ランドセル軽くない?』と、母から聞かれたんですよね。その時、やっと口にできたんです。『私、今日、学校に行きたくない……』って」。
30年近くの時を超えてもなお、声を震わせながら、あの朝を振り返るさゆりさん。孤独と葛藤を詰め込んだ空っぽのランドセルは、精一杯のSOSでした。
「親にしてみたら、『突然どうしたの?』『うちの子に限って……』という思いだったでしょうね。でも、私も含め、不登校の扉を開くお子さんの多くは、その一言を口にするまでに、とても時間がかかっているんじゃないかな。大人が想像する以上に、いろんなことを考えて、迷って、やっと口にしていると思う。それを、わかってあげてほしいです」。
問題解決“されてしまった”、その時。初めて気づいた、「それでもやっぱり行きたくない」という本音
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初めて「行かない」ことを選んだその日、どう過ごしていたか。その記憶は曖昧です。
「でも、『これはずるいこと?』『誰かに後ろ指を指されているのでは?』と、罪悪感を抱いていたことは覚えています。当時は『皆勤賞』が賞賛されて、『ずる休み』なんて言葉だってある時代でしたから」。
その裏側で、学校側は迅速な対応へと移っていました。
「担任の先生が、間髪入れずに家にやって来ました。休んだ初日か、2日目の午後だったと思います。やんちゃな子が多めのクラスだったからでしょうか、大ベテランの先生だったんですよね。
リビングのソファに、私と母と先生で腰かけて。厳しいけれど筋が通った先生のことを、私は信頼していたので、事情を打ち明けました。とはいえ、話せたのは『委員の仕事で、みんなに話を聞いてもらえないのが嫌だった』という程度。何がショックだったかとか、どう悩んでいるのかとか、うまく説明することは難しくて」。
それでも、手がかかるクラスの様子を誰より知る先生は、何が起こっていたのか、イメージを汲み取ってくれました。
「とてもうれしかったのが、先生が母に『悪いのはさゆりさんではありません。これはクラスの問題です』と言ってくれたこと。『私がおかしいのかな? 嫌われているのかな?』と悩んでいたので、そうじゃなかったんだと思えたのは、大きな救いでした」。
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その後間もなく、さゆりさんの手元に届いたのは、クラス全員がしたためた謝罪の手紙でした。
「『さゆりちゃんの気持ちをわかってあげられなかった』『協力しなくてごめんね』って。
先生が今回の件をみんなに投げかけて、手紙を書くという手段に落ち着いたことに、反発心や違和感はありませんでした。でも、手紙を読んで感じたのは、どれも上辺だけだなってこと。4年生にもなれば、『先生はこう書いてほしいんでしょ?』って察しながら作文を書くこともありますよね。まさにそういう感じ。子どもながらに、どの手紙にも真心を感じることができませんでした。
それでも、みんなが『協力する』と言っている以上、私の訴え自体はあっという間に“解決されてしまった”状態になりました」
――さゆりさんがそう表現する裏側には、その時初めて気づいた、複雑な本音がありました。
「不登校の発端となった出来事がクリアになったとしても、やっぱり『行きたくない』と思い続けている自分に気づいたんです。でも、その理由をうまく言語化できなかった。しかも、当時は『学校に行く』というのが、今以上に当たり前の時代。悩みが解決されてしまったからには、行くしかないんだ――そう思いました」。
「自分を押し殺すような毎日だった」――そう言えるのも、大人になった今だから。時間が経って初めて言葉にできることがある
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こうして、間もなく登校を再開。とはいえそれは、大きな違和感を抱えつつ、断続的な欠席を差し挟みながら、という状態でした。
「学校は、行きたくない場所。それでも、新しい知識を得たり、教科書を読んだりするのは好き。『学校に行くからには、勉強はしたい』と思っていました」。
そこで、登校したときは通常通り授業に出席。一方で困ったのが、休み時間の過ごし方でした。
「友達とどう過ごしていいのかが、わからなくなってしまったんです。ですから、休み時間は、カウンセラーがいる相談室や、保健室に避難。授業が始まるころ、再び教室に戻って授業を受ける。それを繰り返していました」。
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その経験も踏まえて、さゆりさんは改めて、当時の違和感の正体を次のように分析します。
「今だからわかるのですが、『それでもやっぱり行きたくない』という思いの根っこにあったのは、『私の資質や性格と、学校という場のアンマッチ』なんですよね。
私はもともと、良く言えば意志が強くて、悪く言えばわがままなタイプ。たとえば小さい頃は、みんなで『縄跳びで遊ぶ』と決めて外に飛び出して、『やっぱり、私はジャングルジムに行ってもいい?』と言い出す子がいても譲らない。相手を慮ったり、例外を作ったりはせず、『みんなで決めたんだから、今日は縄跳びですっ!』って貫くような子でした。判断は白か黒。グレーをつくれなかったんですよね。
ところが、小学3~4年生くらいから、精神的な発達も手伝って、『周りに合わせないと独りぼっちになっちゃうかな?』と思うことが増えてきました。図書室で本を読みたくても、『外で遊ぼう』と誘われたら、『いいよ』と答える。それが自然に育まれた協調性だったら良かったのですが、私はそのバランスのとり方もわからず、かなり無理をしている状態だったんです。
こうして振り返ると、そもそも集団行動も友達付き合いも得意ではない。ところが、ある時期から、心が欲していない方を選び続けるようになって――自分を押し殺すような感覚が、澱のように積み重なっていたのだと思います」。
「否定しない」こと=「受け止める」ことではない。正面から問われてこそ、伝えられる本音がある。
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さゆりさんの母親は、空っぽのランドセルを手にしたその日から一度も、学校を休むことを責めたり、登校を促したりすることはなかったのだそう。
「『不登校』ではなく『登校拒否』と呼ばれていて、学校に行く以外の選択肢がなかった時代。『親はその時どうすべきか』なんていう情報は、今ほどなかったはずです。それでも、大きく取り乱すこともなく休ませてくれたことは、ものすごくありがたかった」。
今や、さゆりさん自身も4歳の息子と6歳の娘を持つ母親。「我が子の緊急事態に、どれだけ不安が募るか想像もつきますから……あの時の母はすごいし、大変だっただろうなあ」と思いを馳せた直後。「でも……」と、その表情が曇りました。
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「『学校に行きたくない』と言った私を否定されたことはないけれど、だからといって『受け止めてもらえた』とも感じていないんです。
あの時の母は、丸く収めようとしていたように思うんですよね。たとえば、同居していた祖母は、『学校に行け』とは言わないまでも、『成績も良かったこの子が、なんで?どうして?大丈夫なの?』という反応を隠さない。すると母は、『おばあちゃん、まあまあ』と祖母を穏やかになだめつつ、私には『ほら、今日もお休みしようか、ね?』と促す。もちろん、祖母への対応はありがたかったです。でもここに、『私の話に耳を傾ける』というプロセスはないんですよね。『今の学校ではない、他の選択肢があったらいいのに』という漠然とした思いもありましたが、それを伝える機会もありませんでした。
聞かれてどれだけ答えられたかは、正直わかりません。でも、『学校のこと、どう思ってるの?』とか、『どうしたいと思ってる?』とか、『何か力になれることはある?』とか……正面からボールを投げてくれて初めて、投げ返せる本音があった気がするんです。
親には感謝しているし、責任をなすりつけるつもりもありません。それでも、『学校と家』という狭い世界で生きていたから――『母に、もっと向き合ってほしかった』。その本音に気づくのに、30年近くかかってしまいました」。
ここまでは、不登校に至る前後での心の内と、時間が経ったからこそ見えてきたあの頃の本音を、さゆりさんに語っていただきました。
続く次回記事『元・不登校児がようやく見つけた「自分の取扱説明書」と「心地よい居場所」とは? 今、不登校の親子にどうしても伝えたいこと』では、自らが活きる心地よい場所を少しずつ見つけ出していくさゆりさんの歩みをお伝えします。
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