「フローリッシング」という言葉をご存じでしょうか。花開くという意味のこの言葉は、この4月にThe Lancet Public Health など著名ジャーナルに登場するや、瞬く間に広まったそうです。
24年夏のオトナサローネ記事『超高齢社会の日本だけが世界で成功する「若返り」って?抗老化医学の先端を走る医師が語る「エピジェネティック」』は配信から1年を経た現在でも読まれ続けています。お話しくださったのは抗加齢医学会前理事長の山田秀和先生です。
「ウェルビーイングという言葉もいいのだけれど、どうもぴたっとこないな、言い尽くせていないなという感覚がありました。フローリッシングという言葉を聞いて、これだな!と。100年時代をより豊かに進化して生き続ける、現状維持に止まらずよりよく花開くという意味が込められています」
そう語る山田先生に、年々「とんでもない速度で進化し続けている」抗加齢医学分野がいま向かっている方向を伺いました。
「エピジェネティック・クロック」が明らかにする健康の新たな側面
――毎年毎年、考えられない速度で進化を遂げている抗加齢医学の世界。まずは、25年時点の概要を教えてください。
2013年にスティーブ・ホーヴァス博士が「エピジェネティック・クロック」という概念を提唱しました。これは、DNAのメチル化パターンをもとに生物の生物学的年齢を推定する方法で、加齢の客観的な指標として注目されました。暦年齢ではなく、生物学的年齢で評価しようという、その評価方法が新たに生まれたのです。
ここから抗加齢医学の研究が急速に進展し、遺伝子の発現を調整する仕組み、エピジェネティクスがまたたく間に「共通のものさし」として普及しました。「老化は病である」という言葉も聞いたことがあると思います。現在、世界は例えば「老化を予防するワクチン」の研究を進めるレベルに達しています。
エピジェネティクスの例を挙げると、IL-6(炎症に関わるタンパク質)の発現には複数の遺伝子が関わっていますが、DNAメチル化のパターンを統計解析するだけで、血中のIL-6濃度をおおよそ予測できるようになりました。
現在では2,000〜3,000種類ほどの生体指標を予測できます。つまり、少量の血液から「エピスコア」という形で、暦の年齢ではなく生物学的な年齢や健康状態を予測できるようになったのです。
現在、1検体あたり8〜10万円ほどの費用がかかりますが、この価格を払って「あなたの生物学的年齢は69歳です」という結果がわかるだけでは物足りませんよね。そこで、たとえば国内の代表的なサービスであるRelixa社の「エピクロック」の場合、データの詳細な報告書がついていて、食事や運動、サプリメント、場合によって治療など、どのような介入を行うのが効果的か医師から説明を受けるようになっています。
――過日私もまさに「エピクロック」の検査を体験しましたが、医師からいま起きている症状だけでなく「未来に起きうるリスク」の説明を受けたことが健康診断の100倍衝撃的でした。
興味深いことに、エピジェネティクスで見ると、運動や栄養といった従来重視されてきた要素だけでなく、スピリチュアルな生活をしている人のコホート(集団)では相関がある傾向が示唆されています。つまり、ウェルビーイングの次の研究課題は、スピリチュアル、宗教的な霊性の方向に進む可能性があるのです。日本人は戦後、神道的な宗教要素を社会の中では薄めましたが、もしかして盆踊りのような宗教的行事には生物学的にも意味があるのかもしれません。
また、エピジェネティクスによって自殺企図の程度も予測できるようになってきました。ヒトのゲノムには約2,800万のCpGサイト(メチル化される部位)がありますが、すべてを調べるのではなく、特定の部位だけを調べることで、より安価に検査できるようになるでしょう。現在はデータ解析に多大なコストがかかりますが、AIの発展によって値段は下がっていくと思います。
エピジェネティクスでいろいろなことができるようになると、日本のような超高齢化社会では健康そのものが価値を持つ「健康資産」という概念が成立し、これが投資対象にもなり得る。私たち研究者はそう考えています。
これだけ豊かなのにみんなが不幸だと感じている日本、でもその物差しは「正しく計れているのか」
――その健康資産とはどういう資産なのでしょうか。単に健康が大事というお話ではないですよね。
WHOは健康を「単に疾病や虚弱がないというだけでなく、身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態」と定義していますが、じつは2017年頃からはその定義に「霊性(spiritual)」という文言を入れる議論が提案されています。これが前述のスピリチュアルです。
WHOには世界160カ国以上が加盟しており、人口が多いのはイスラム圏です。キリスト教世界は衰退していっている一方で、イスラム教世界は拡大しています。このような宗教的背景の中で「霊性」という概念を健康定義に入れることは、非常にセンシティブな領域になるのではないでしょうか。
「ウェルビーイング」の概念を分解していくと、霊性、人とのつながり、美の定義など、哲学的な不快問題に行き着きます。私は皮膚科医として長年見た目のアンチエイジング領域を研究してきましたが、西洋ではこれら美のありかたはギリシャ哲学やイスラムの美学と密接に関わっています。
――流行の誰みたいな顔という表象の模倣ではなく、自らが内面に持つ論理と価値観に合致するかというような、根本的な問いと満足ですね。
日本でも徐々に、単に長生きしましょうという時代を経て、「何のために生きているのか」「生きがいとは何か」という問いが重要になってきていますよね。停滞中とはいえ経済的には世界3、4位、なのに幸福度調査では紛争地域ばりの低い値が出ることはご存じでしょう。なぜなのか。一方で、生きがいや健康長寿に関しては世界的にも高い評価を得ています。
条件的にはこれだけ幸福なのに自認は不幸。でもそんなにみんな不幸なのか? 本当に不幸と感じているのか? 正確に比較できているのか? とにかく、非常に不思議な状況にあるのが日本という国なのです。
―――
ここまでは山田先生に日本における抗加齢医学の2025年時点での状況をお話いただきました。エピジェネティクスという尺度を新たに得たことでさまざまなことの判定が変わりました。こうした尺度の視点変更を体験すると、日本人の不幸の度合いも果たして「測れているのか」、尺度の側が適切なのかという疑問も生まれると感じます。つづく【関連】記事では山田先生がこの1年で感じた世界と日本の違い、世界における日本の「健康」に関する優位点を詳しく伺います。
関連▶「海外との研究資金格差は、江戸末期の日本と西洋諸国に近い」。抗加齢医学のトップランナーが語る「打つ手」とは
お話/山田秀和先生
近畿大学客員教授。日本抗加齢医学会理事長。日本皮膚科学会専門医。日本アレルギー学会専門医。日本東洋医学会専門医。近畿大学医学部卒業後、同大学院医学科博士課程修了。2007年、近畿大学アンチエイジングセンターを創設。同センター副センター長、近畿大学奈良病院皮膚科教授を歴任。老化時計(Aging Clock) など生物学的年齢計測技術を用いて、老化速度のコントロールや若返りの治療・研究や臨床試験に携わっている。