女性問題、中でも性愛含めた女性の身体性について追いかけ続けるライター・エディターの三浦ゆえさん。更年期にさしかかったことで見えてきたさまざまな自分のこと、周囲のことを語る連載です。
前編記事『いわゆる「嫌しらず」問題の発展形、「イヤと明確に言っても押し切られる」この徒労感に溢れた「NO知らず」はなぜ消えないのか』に続く後編です。
【私の更年期by三浦ゆえ】
年をとったことで「見えていなかったこと」が見えるようになってきた、かもしれない
Bが仕掛けたことは、この段階ではセクハラとまでは言えないだろう。でも、そこにつながりかねない芽のようなものは確実に出ていた。その芽を見つけられるようになったのは、自分が年を重ねたからなのだと思う。
セクハラは渦中にいる人ほど気づきにくくて、思えば自分も20代、30代はずっと見えていなかった。セクハラはいくつになっても遭うけれど、社会人経験、人生経験が浅いほうがつけ込まれやすい。自分が被ったことがセクハラに相当するものなのかもわからず、「でも、私にも悪いところあったし」とフタをしてきた。
ジェンダーとかフェミニズムとか、そういったものと縁遠い人生を長らく生きてきたのも、被害に鈍感だった理由のひとつだと思う。いまの50歳前後が大学で学んだり社会に出たりしたのは、ちょうどバックラッシュ……男女平等や“ジェンダーフリー”への反発が強まっていた時代。いや、私自身の不勉強も大いにあるのですが。
渦中というだけあって、ずっと洗濯槽のなかでぐるぐる振り回されているようだった。そこからやっと、洗濯槽の縁(へり)まで抜け出せたかなと思ったときには、40代に突入していた(それでもショッキングな案件があったのですが、それはまた別の機会に)。
「オバサンの自意識過剰」というはやし立ても「NO知らず」と構造的に同じではないか
縁から中を覗き込むと、あぁこんな仕組みになっていたのかというのが、不勉強な私にもよくわかった。自分がセクハラに遭ったのは、仕組みのなかにいたからで、あるいは加害者が巧妙だったからで、自分が悪いわけではないとわかっただけで、年をとった甲斐があると思った。
SNSなどでは、セクハラや性被害について中年女性が発言すると、「オバサンは対象外なのに自意識過剰」「若い女に嫉妬している」という冷笑が飛び交う。そうじゃなくて、やっと見えるようになったんだよ。目の前が、開けたんだよ。だから黙っていられない。
そこには、自分たちより下の世代に同じ目に遭ってほしくないという想いもある。この年代であれば、10代の子どもを育てている人も多い。いまの20代や30代は知識も情報も豊富で賢くて、多くの人が仕組みも巧妙さもわかっているのだろうと思う。それでもセクハラはどんな業界でも、仕事を離れた場でも、横行している。なくならないから、やっぱり黙っていられない。
「ハラスメントの世代間連鎖」もきっと起きている。止めるためには
じゃあBのような男性はどうなのか。次世代に何か伝えたいものがあるとは思えない。けれど、伝わってしまっているものはある。力を利用して、相手が「NO」を言えない空気を作り、追い込み、思いどおりにする、その手口。Bもまた、上の世代がそうしているのを間近で見て、自分に取り込んでしまったのだろう。
単純に男女で分けることはできなくて、男性でも若いうちからそうした文化になじめずにきた人はいるし、同世代の女性でも仕組みが見えないまま、自分を責めつづけている人もきっといる。とはいえ、総じて「見えている光景が、女性と男性とではやっぱり違う」と言えるはずだし、人生後半戦、その差はますます広がっていくのだと思う。何もしなければ。
開けた視界で生きていくほうが絶対いいはずなのだけど、慣れ親しんだめがねを外すのを怖いと思う人もきっといる。よくない習慣とわかっていても、年を重ねるごとにますます手放しにくくなるというのは、私にも身に覚えがある。けど、この先どっちの光景を見る人でいたいのかは考えつづけたいし、Bのような人ほどそうしてほしい。
>>>「嫌しらず」問題の近縁、「イヤと言ってるのに集団で押し切られる」徒労感に溢れた「NO知らず」はなぜ消えないのか