
今から約5年前、コロナ禍での自粛が続く2021年10月に、パナソニックで「女性の体調を可視化する」プロジェクトが立ち上がった。
誰もが名を知る老舗メーカーでありながら、意外にもパナソニックは消費者向けの月額課金型アプリサービス領域をほぼ持たない。最終的に「体調ナビゲーションサービスRizMo(リズモ)」という、デバイス+月額課金型アプリサービスとしてリリースされたこのプロジェクトは、メーカーならではの超硬派なものづくりに同社新領域のサービスを掛け合わせる異例の挑戦となった。
「開発はやっと一段落つきました。でも、まだやっとスタートラインに立ったところです」とプロジェクトリーダー・図師氏は語る。2025年10月の発売まで足かけ4年半にわたる開発の一部始終を、携わった12人のメンバーにそれぞれの立場から振り返ってもらう。
【RizMoを作った12人】#1

「モノ売り」の時代が終わる漠然とした危機感の中、突如として「フェムテック」と出合った

パナソニック株式会社 ビューティ・パーソナルケア事業部 ビジネスデザイン部 フェムケア推進課 課長 図師和彦氏
「長く複数の女性系疾患に苦しんだ経験をもとに自ら衣服内体温計を開発した、北沢真澄さんという方がいます。彼女が2008年にサービスインした『ランズナイト』はパジャマのウエスト部分に装着して就寝中の衣服内温度を記録するウエアラブル温度計。計測データを蓄積分析し、結果を可視化するサービス『ランズストーリー』と併せて熱心なユーザーに支持されてきました。さまざまな事情で2022年に事業終了を発表するとユーザーから惜しむ声が上がり、継承先を探し始めておられました。そのさなかに偶然、門戸を叩いたのが『RizMo』プロジェクトの大きな分水嶺となりました」
こう語るのはプロジェクトリーダーの図師氏。パナソニック勤続30年を超える図師氏は長くマーケティングおよび新規事業の担当者として過ごしてきた。異分野といえる女性の健康領域に転向した理由は何なのだろうか。
「きっかけは単に転勤です。ただ、新規事業を手掛けたこの5年で『自身のバイタルデータが人間の行動変容を促す』という仮説を育てていて、新規サービス企画を温めていた矢先の転勤でした。これからの人生100年時代を前に、いずれ社会福祉や健康保険制度がもたなくなるリスクは明白であり、個人が健康を自力で維持したまま人生を終える社会をつくらねばなりません。そのために何をするかという方程式は、ある程度自分の中でできあがっていました」

図師氏は同時に、パナソニックが創業から維持してきた「モノ売り」の時代は終わるという危機感も強く持っていたという。準備していたのは「睡眠や腸内環境」のサービス事業だったが、新たな行き先は美容健康事業だった。
同社での美容健康事業とは、ヘアドライヤー、美顔器など女性をメインターゲットとする、いわば旧松下電工の流れをくむ領域。住宅配線事業、美容家電事業を独自領域として築き上げてきたことでも知られる。また、女性向けアイテムも多くの品ぞろえがあるため、優秀な女性が多く集う専門性の高い分野でもある。どのように向き合うかを考え始めたちょうどその時期、図師氏は突如として「フェムテック」という言葉に出合った。
「2020年11月のNHK『クローズアップ現代』のフェムテック特集を偶然視聴しました。衝撃でした。これまでごく当たり前のように一緒に働いてきた女性たちが、これほどまでに月経周期の波でしんどい課題を抱えているだなんて、まったく知らなかった。これこそはわれわれが事業として手掛け、解決に寄与すべき課題だと確信しました」
翌日から「突如としてフェムテック、フェムテックと連呼するフェムテックおじさんと化して」、図師氏はリサーチに没入した。知れば知るほど、知らなかった世界がそこにある。半年足らずのうちに北沢さんの技術継承の件を知り、6月には迷うことなく継承に手を挙げた。
生まれたばかりの「フェムテック」を男性が男性にプレゼンする難しさ。「そんなデータのいったい何が価値になるのか」

2020年は日本のフェムテック元年といわれる。いまでこそフェムテックは「女性特有の健康課題解決を支援する技術」だという認識も広がったが、当時は概念そのものが知られていない。ベースとなるプロダクト「ランズナイト」を見せて説明できることは有利だった。
しかし、社内上層部に対する「フェムテックとは何か」「なぜパナソニックがわざわざが行うのか」の説明は想像どおり難しく、また、意外なことに開発陣への「誰のために何を作るのか」の説明も困難を極めた。具体的なモノを作り出すメーカーの開発陣にとって、サービス事業というコンセプト主導の領域は決して「わかりやすく」なかったのだ。
「とにかく、コンセプトと技術の翻訳役であり、猛進力をもった顧客の代弁者でもあるプランナーがいないと話にならなくて。プロダクトの価値は『ランズナイト』があるためわかる、また計測器の企画経験者もいたため、ものづくり面での可能性は見えていました。しかし、パナソニックはモノを通じた顧客価値づくりを重視してきた会社。『売って完了』にならない、つながり続けるアプリ側に価値を持たせたサービス開発は事業場内に経験がありません。当初は他社の月経周期アプリにつなぎ込む方式も検討しましたが、同時にわれわれはいま『モノ売り時代の終焉』にも直面している。これは自社で乗り越えないとならないと腹をくくりました」
覚悟は決まった。しかし、多くの老舗メーカーがそうであるように、パナソニックも開発現場は男性比率が高い。今回は女性向けサービスプロダクトであり、当事者としての女性プランナーの必要性は火を見るより明らかだった。
幸いにして美容分野は女性の企画・開発者も多い部門ではあるが、ここに盲点がある。男性社会であるメーカーの中で女性進出が進んだ領域とは、すなわち優秀な女性たちがそこに集中し、しのぎを削る領域でもあるのだ。
今回は概念がない新領域だけに、リーダーとプランナーの視線が少しずれただけで全体のピントが狂う。図師氏のチャレンジに興味を持てる、大げさに言えば国の未来を背負うような使命感を共有できる人材でなければ、向かう方向が本当に正しいのか不安に思う局面で、ほぼ確実に見当違いの方向に進んでしまうだろう。しかし、そんなに都合のよい人材が果たして存在するのか。
そんな中、「図師さんに紹介したい女性プランナーがいる」と当時の上司から声がかかった。ここで紹介された井上氏はまさにミッシングピースを埋める人物だった。
「女性のことなのに当事者の女性がいちばんわかっていない」。まずは医学の勉強から始めた

パナソニック株式会社 ビューティ・パーソナルケア事業部 ビューティブランドマネジメント部 井上貴美子氏
井上氏がプロジェクトに参加したのは2021年8月。10年にわたり美容分野でヘアケアなどの商品企画を担当してきた彼女は、図師氏との初めての面談で一気にスライド100枚近いプレゼンを受けたという。
「熱烈なプレゼンでした。女性は4週間のうち1週間は自分の力を発揮できないまま社会に参加している。そのことを周囲の男性は知らない。この不健全さを解消したい。単なる月経管理サービスにとどまらず、社会のエコシステムとして機能するインフラを設計する。未来の日本社会を変えていける。そのために社外も含め考えられる限りの連携をとっていく。いま思えばまだフェムテックブーム前の時期に、よくそこまで考え抜いたものですが、とにかく図師の持つビジョンを圧倒的な熱量で説明されました」
そこに提示される未来のあり方にも強く共感した井上氏は、「すごくおもしろそう! やってみたいです!」と即答したという。入社以来、ドライヤーやヘアアイロンなど「見た目にあらわれる美しさ」に関与してきた井上氏は、仕事には満足感を持ちながらも、自分の果たせる新たな価値創造には限界を感じつつあったという。しかし、いざ新プロジェクトに参加を決めてみるとすぐさま気づくことがあった。自分自身が30代後半という不調の出る時期にさしかかっていながら、女性特有の健康課題についてまるで知識がなかったのだ。

「なぜ女性には女性特有の不調が起きるのか……? 答えられないのは私だけではありません。ほとんどの女性が自分の身体の仕組みを知らないのです。せいぜい中学の保健体育で1時間習う程度ですよね。なので、私もプロジェクト参加当初はひたすら勉強をしていました。女性医学の専門書を片っ端から読み、世界中のフェムテックサービスをひたすら調べ、一時期はスマホに健康系のアプリを50個以上入れて、どういう仕組みでどのような課題を解決するのか、正しいアプローチは何なのかを徹底的に調査しました」
図師氏は「バイタルデータは人間の行動変容を促す」と確信を持っていたが、一方で井上氏は「いかに医学的・科学的に正しいアプローチをとろうと、消費者はそう簡単には行動変容を起こさない」と感じていたという。
「ものすごく強いニーズや、こうありたいと切望する理想像があって、初めて能動的に行動する。これは自分自身もそうですから、行動を起こすきっかけは何なのかを調査していました。バイタルデータである温度も、そのまま見せるのがいいのか、何か新しい切り口をつけ加えるのか……。できることは無限にありますが、『このサービスが提供する価値はこれです!』と明確に言い切る必要があり、そのために芯を1本スパッと通す必要がありました」
自分の不調タイプ診断をすべきか、ダイエットなど目的に対しての効率を診断すべきか……千本ノックのようにひたすら価値創造を考えたが、「これだ!」という瞬間はついに訪れなかった。図師氏の「答えは生活者の中にしかない」とのアドバイスも相まって、机上の検討はいったんやめ、実際に悩みを持つユーザーに何が響くのかを検証してもらうしかないと結論づけた。
こうして2021年冬、技術継承した「ランズナイト」のユーザーを対象に、特別に設計した「原理モデル」でのテストが始まった。
気合でまとめた手作業エクセルの「井上レポート」が「真に可視化すべきもの」を浮かび上がらせた

原理モデルテストは、世にあるものをつなぎ合わせた疑似サービスでスタートした。衣服内温度の計測は「ランズナイト」で行い、データの可視化はWebアプリである「ランズストーリー」を使う。参加者は温度計測のほか、「ランズストーリー」上で日々の体調も入力する。参加者一人一人のデータを1週間単位で専門家が確認し、データの傾向やそれを踏まえた生活習慣アドバイスをもらい、それをパナソニック側担当者がLINE内の連絡アカウントを通じて、参加者にフィードバックする。
このテストの初期に井上氏はふと、こう考えた。
「『バイタルデータは人間の行動変容を促す』なら、どのようなデータでいちばん心が動くのだろう。女性は定期的に不調がくる前提で暮らしていますから、普段は『その瞬間』の自分の体調だけに向き合っています。であれば、その瞬間以外の時間軸、たとえば生理周期全体で自分の体調がどう変化していたのかを客観的に可視化できたら新しい価値になるのではないか?」
従来の点や線を越えた、面でのデータ提供を思いついたのだ。しかし、考えたはいいが、分析するツールがあるわけでもない。専門家に頼もうにも、何をどう分析してほしいのかがわからない。悩んだ井上氏は、なんとテスト参加者の体調データを手作業で分析するという力業に出た。1周期を黄体期、卵胞期など4つに分け、「この時期にこういう不調が出やすいですね」と分析する渾身のレポートを作成したのだ。
「テストは約3カ月実施し、中間と最終で一人ずつ90分のインタビューを行います。中間インタビューでこの手作り分析レポートをお渡ししたところ、『こんなの見たことない!』と驚きの声が上がりました。もう、目の色が変わるといいますか、『こんなふうに自分のことがわかるんだ!』『初めて見た!』とひたすら驚嘆されて。でも、そうですよね。私だってこれまで、自分のデータの客観的な分析レポートなんて見る機会がありませんでした。誰も見たことがなかったのです」
この中間インタビューでの強い反応と呼応するように、1カ月後の最終インタビューではさらなる変化が起きた。分析レポートを手にしたテスト参加者たちは、明らかに自分の行動を変えたのだ。
「この時期に肌荒れしそうだから化粧水を敏感肌用に変えました」「イライラや肩こりが出そうな時期に予定を詰めすぎないようにしました」「長距離の運転を控えました」……自分の生活を便利にするため、データを生かすさまざまな具体例が見えてきた。

「自分自身をデータでここまで詳しく、かつ客観的に見ることそのものが新しい体験です。そして、行動変容は確かに起きた。データは本当に、生活を便利に変え、整えるきっかけになるのです。自分のことだけをしっかりと客観的に分析してもらえれば大きな価値になる。私もここで確証を持ちました」
1週間や1カ月単位でフィードバックをする健康アプリもあるが、本来は個人の月経周期を起点にした不調のフィードバックがあるべきだったのだ。この通称「井上レポート」による発見は、あとから振り返ればフェムテックと同時期にブームになった「パーソナライズ」の流れにも合致していた。フェムテック、パーソナライズ、どちらもその後数年で社会的にも主流の概念となったことは言うまでもない。
しかし、「井上レポート」は同時に極めて大きな課題をプロジェクトに呈した。
「時間がかかる、という弱点を併せ持っていたのです。個別分析は、最初のレポートを作成するまでに最低1周期、約30日分のデータが必要です。使い始めの約30日間という、継続使用のコアとなる時期に最大の価値であるはずのレポートが作成できない。人は30日もの間黙々と計測を続けられるものなのか? どうすればモチベーションが保てるのか……」
ここからは次なる「価値の創造」に伴走した、データ分析チームに語ってもらおう。
つづき>>>「同じデータでも生体とデジカメは180度違った…」。老舗だからこそ「初めて直面した」分析の終わりなき苦難




