週刊朝日vs.橋下大阪市長「不健全な関係」
社会
ニュース
問題になった記事は、橋下市長の「出自」=ルーツを探るもので、ノンフィクション作家の佐野眞一さんが執筆したものです。取材には、佐野さんのほかに、週刊朝日の取材班が行なっています。文中にこんな文章があります。
「オレの身元調査までするのか。橋下はそう言って、自分に刃向かう者と見るや生来の攻撃的な本性をむき出しにするかもしれない」
その意味では、その通りになりました。これを読んだ時、私は編集部内で闘う意志が共有化されているのかと思っていました。しかし、週刊朝日はあっけなく連載中止を決めてしまいます。判断までの時間もかからなかったことから、朝日新聞本社の意向が反映したのではないかと思わせます。もし編集部だけの判断であれば、もっと議論がされるはずですが、そうした形跡を見ることはできません。
橋下市長のことを書くと雑誌は売れると言われています。「維新の会」の支持率が低下していく中でも、なぜか、橋下市長に対して好き・嫌い、支持・不支持をとわず、気になって買ってしまうのかもしれません。そのため各雑誌がいろんな手法で橋下市長を描こうとしています。緊急連載と銘打った週刊朝日の記事ですが、第一回目とあってか、内容的な意味で「新しいもの」はありません。それでもあの書き出しが必要があったのでしょう。結局、その意図は連載中止によってまったく見えてきません。
なぜ、佐野さんが、橋下市長の「出自」にこだわるのか。それは一回目だけではわかりません。出自と橋下市長の政治手法が関連していると主張したいのでしょうが、その関連は少なくともその記事ではわかりませんでした。その意味では、2回目を読まないと判断できないと思いました。しかし、そこは書籍と違って、雑誌の場合、読者は一回ごとに判断します。単に「出自」をさらしただけ、と映ってしまえば、意図が見えなくなるだけです。
週刊朝日は、編集長名でお詫びを出しました。
『ジャーナリズムにとって最も重視すべき人権に著しく配慮を欠くものになりました。記事の作成にあたっては、表現方法や内容などについて、編集部での検討だけではなく、社内の関係部署のチェック、指摘も受けながら進めました。しかし、最終的に、私の判断で第1回の記事を決定しました』
しかし、私が悪かった、というだけで、どうしてそうした判断になったのか。なぜ、こうした「おわび」の内容になったのかがまったく見えてきません。闘う意志もなかったのに、連載を開始したとは思えないのですが、わからないままです。おそらくは、名誉毀損での民事訴訟は想定していたのでしょうが、親会社の朝日新聞の取材拒否までは考えていなかったのでしょう。その意味では、駆け引きとしては橋下市長が「上」だったと思います。
一方、言論の自由は憲法で保障されています。憲法は国家、権力を制約するものです。その憲法で、言論の自由は例外なく保障されているのです。しかし、橋下市長は「一線を越えている」と述べました。権力者へのいかなる言論の自由は保障されなければなりません。そのため、「一線はない」のです。特定の報道機関をターゲットに取材拒否することに対して、報道に携わる者は抗議をしなければいけないでしょう。記者会見でも、朝日以外の他者の記者もそのおかしさに気がついていました。
さらには、週刊朝日が、掲載誌を送り、橋下市長の実母に対して取材を求めたことに対して、「人間じゃない。鬼畜、犬猫以下。矯正不可能だ」と言っています。のちに、「実母に送りつけて来た事実はない」「謝った事実認識のもとに、週刊朝日を鬼畜集団と批判したことは申し訳ありません」と訂正していますが、これは差別発言と受け止めることができます。仮に自分に向けられた悪意があったとしても、権力者は冷静に判断し、表現できることが望まれます。それどころか、「佐野を抹殺しに行かないといけない」と脅しともとれる発言をしています。
週刊朝日であれ、橋下市長であれ、これらの対応は、権力者と報道との関係が不健全な状態であることは明らかではないでしょうか。
[ライター 渋井哲也/生きづらさを抱える若者、ネットコミュニケーション、自殺問題などを取材
有料メルマガ「悩み、もがき。それでも...」(http://magazine.livedoor.com/magazine/21)を配信中]
《NewsCafeコラム》