夫婦問題・モラハラカウンセラーの麻野祐香です。
「なんでそんなこともできないの?」
「俺が正しいだろ。お前は黙ってろ。」
夫にそう言われるたび、T子さんは無意識に唇を噛んでいました。
血がにじむほど噛み続けた唇は、いつも腫れていたといいます。
その行動が、心を守るための“なだめ行動”だったと知ったとき、T子さんはふと、子どもたちも父親と接するときに同じようなしぐさ(自分の体を触る動き)をしていることに気がついたそうです。
今回は、そんなT子さんとご家族のエピソードをご紹介します。
※本人が特定できないよう変更を加えてあります
※写真はイメージです
「夫の機嫌をうかがう日々」が日常に
夫と結婚して15年。T子さんの生活は、いつしか“夫の機嫌をうかがう日々”になっていました。夫は外では人当たりがよく、仕事関係の人たちからも「面倒見の良い人」と慕われています。けれど、家ではまるで別人のようでした。
たとえば、食事の支度が少しでも遅れれば、「まだできてないの?主婦のくせに」と冷たく言い放ちます。子どもが思い通りに動かないと、「お前の育て方が悪い」と怒鳴りつけます。
どれだけ頑張っても、どれだけ我慢しても、夫から「ありがとう」と言われたことは一度もありません。T子さんが自分の意見を口にすれば、返ってくるのは
「何様のつもりだ」
「俺の金で暮らしてるくせに」
そんな言葉ばかりでした。
「怒鳴られるかもしれない」という緊張が、常にT子さんの中にありました。
夫が家にいる日は、ずっと気を張り詰めて過ごしていたといいます。夫の車が家の前に止まる音がすると、心臓がバクバクと高鳴り、手が震える。
夫が帰宅すると、テレビの音を小さくし、子どもたちには「静かにしてね」と声をかける……。それが、T子さんにとっての“日常”になっていました。
唇の腫れが教えてくれたこと
ある日、唇の腫れが気になったT子さんは、近くの皮膚科を受診しました。診察を終えた医師はこう言いました。
「病気ではありません。ご自身で唇を噛む癖があるようですね。噛みグセは、ストレスのサインかもしれませんよ」
その言葉に促されるまま、T子さんは心療内科を訪ねました。医師に「どんなときに唇を噛んでしまいますか?」と聞かれたT子さんは、よく考えてみて、はっとしました。
・夫が帰宅したとき
・夫と話すとき
・夫の気配を感じたとき
そう伝えると、医師は「ご主人がストレスの原因になっているんですね。それは“なだめ行動”と呼ばれるものです」と教えてくれました。
「なだめ行動」とは? 心と体を守るための無意識の反応
「なだめ行動」とは、ストレスや不安、恐怖といった“情動の高ぶり”を抑えるために、人が無意識に行う“自分を落ち着かせる行動”のことです。では、なぜこうした行動が起きるのでしょうか?
人間は不安や恐怖を感じると、交感神経が優位になり、身体が“戦うか、逃げるか”の緊張状態に入ります。このとき、脳内ではストレスホルモンが分泌され、心拍数が上がり、筋肉がこわばります。
この“心と体の暴走”を無意識に沈めるために、私たちは手をさすったり、髪を触ったり、何かを握りしめたりといった自己刺激的な行動をとります。
たとえば
「唇を噛む」
「髪をいじる」
「指をこする」
といったしぐさ。
これらは意識的にしているのではなく、身体が自分を守るために反射的に起こす、防衛本能のような反応なのです。目の前で起きているストレスや恐怖、緊張から自分を守るために、体が無意識に働いているのです。
T子さんにとっては、日常の中の些細なことさえ、心と体にとっての“危険信号”になっていました。
夫が帰宅し、玄関のドアが開く音。
スマホに表示された「夫」の名前。
そして、同じ空間に夫がいるというだけの状況。
それらすべてが、「また何かされるかもしれない」という危機感を呼び起こす“トリガー”になっていたのです。
「これ、私と同じじゃない?」子どもたちの“なだめ行動”
心療内科で「唇を噛むのは“なだめ行動”です」と言われた日、T子さんは、自分がどれほど日常的に緊張して生きていたのか、初めて実感しました。
「私は……夫が怖かったんだ」
そう、ようやく認めることができたのです。
ずっと何も気づかないふりをしていました。けれど……唇が腫れるほど噛みしめていたのは、心の悲鳴だった。そう気づいた瞬間、T子さんの目からは涙が止まらなくなりました。
心療内科から帰宅したT子さんは、子どもたちの様子を静かに観察してみました。夫と会話している息子は、無意識に指先をなぞるようにこすっている。娘は、父の足音が聞こえると髪をいじり、明らかに口数が減っていく。何か話しかけられても、髪をいじったまま、目をそらし、声は聞き取れないほど小さい。
その姿を見た瞬間、「なだめ行動」という言葉が、T子さんの中で鮮やかによみがえりました。
「これ……私と同じじゃない?」
T子さんは心療内科の医師の言葉を思い出しました。
「特に子どもは、言葉で不安をうまく表現できないぶん、身体の動きに感情が現れやすくなります。爪をかむ、髪をいじる、服を引っぱるなどのしぐさが頻繁に見られる場合、それは『この家は安心できない』という心のメッセージかもしれません」
まさにその通りでした。T子さんの子どもたちも、ずっと“この家の空気”を敏感に感じ取り、必死に耐えていたのです。
「夫は子どもに直接怒鳴ることは少なかった。だから、子どもには関係ないと思っていました。でも……違ったんです。あの子たちは、私と同じように、ずっとこの空気の中で苦しんでいた」
T子さんは、子どもたちの健気な“なだめ行動”を見たことで、初めて心から思いました。
「このままではいけない。私が変わらなきゃ。そしてこの家を、変えなければ」
強い決意が、T子さんの中に生まれたのです。
本編では、夫のモラハラによって無意識に「なだめ行動」をとるようになっていたT子さんと子どもたちの姿をお届けしました。
▶▶「私はモラハラに支配されない」傷つきながらも自分と子どもを守り抜くために、私が選んだ道
では、T子さんが夫とどう距離を取り、どんなふうに心を守っていったのかをお伝えします。